08 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 10

肥前陶磁器あれこれ~

オールド香蘭社、オールド深川、古伊万里、平戸焼などを集めています。

 

謎の銘、松茂堂竹芭製(輸出亀山焼) 

長崎の亀山焼について、皆さんはどれだけご存知でしょうか。
亀山焼きは、19世紀初頭に忽然と現われ、60年後に明治時代の到来と共に消えてしまった
幻のやきものです。

(以下、亀山焼きについての考察です。長いので興味のない方はご遠慮ください・・)

kameyama 1

以下、亀山窯の歴史概要。

創生期(1806~)  オランダ船に積む甕(長崎で降ろした荷の代わりに水瓶を積んだ)を
              長崎市伊良林で焼き始める
              ちなみに、その甕の陶片などは見つかっていないそうです。

初期 (1814年頃)  複数の創始者により、長崎奉行の奨励を受け、磁器を焼き始める。
              有田より職人を呼び、天草陶石を使用して高級磁器を焼く。
              他藩で入手できない中国からの花呉須も輸入し、使用。

    (1819年)    創始者の一人、大神甚五平による単独経営。           
              多くの高級磁器を生産したが、やがて採算が取れず、廃窯。

中期 (1860年)    長崎奉行・岡部駿河守により、再興。ほどなく廃窯。

後期 (1865年)    長崎の豪商・小曾根乾堂により、再窯。
               明治維新後、廃業。

kameyama 3

歴史は以上にざっと述べたような感じです。

いろいろと謎の多い亀山焼ですが、存在した時間がわずか60年足らずだったにもかかわらず、
名陶と呼ぶにふさわしい焼物を生み出しました。

当時日本で一番華やかな文化を謳歌していた長崎の土地には、ありとあらゆる文化人が集い
学び、遊んだわけですが、この多文化共同体では、中国風の南画がとりわけ流行りました。
そのため、長崎に逗留していた三浦梧門、木下逸雲、そして豊後の田能村竹田などの南画家が
亀山焼(初期のころから)に絵付けをしたそうです。

なんという贅沢!

木下逸雲などは、銘を残していますが、実はこの初期に絵付けされたものには
銘がないものが多いのだそうです。

kameyama 4

さて、当時の長崎の多文化的な性質を反映して、
亀山焼には、所謂文人画の絵付けが多いと言われています。

この特徴のせいか、長崎で亀山焼きを扱う骨董商の人たちの中には、
”亀山焼きは国内向けに造られたもので、献上手のような高級磁器の作成を目的とした”
と主張する人もいるようです。

でも、その一方で、”亀山焼きは元々輸出用に造られたものである”と仰る方も
いるようです。

どっちが本当なのでしょうか?

kameyama 5

おそらく、輸出用に始めたものの、うまくいかずに
国内向けに生産するようになった、というのが本当のところではないでしょうか。

19世紀初期、といえば、日本沿岸には外国船が出没し、
江戸の鎖国政策が揺らぎ始め、日本人は外国を意識するようになった時期です。
江戸幕府は財政面でも衰弱し始め、加えて天災なども次々と起こり、
その求心力は低下するばかりでした。

財政難にあえぐ諸藩を尻目に、海外への唯一の窓口であった天領の長崎では、
相変わらず貿易による利益を上げていましたが、そんな長崎奉行の目に留まったのは
当時出島や長崎湾岸を警護し、その見返りにヨーロッパなどに磁器を輸出し外貨を稼いでいた
鍋島藩や平戸・松浦藩でした。

昨今のドラマなどで、明治維新は長州と薩摩がやったように描かれていますが
鍋島閑叟が備えた佐賀藩のアームストロング砲が、戊辰戦争で
大いに活躍したのは有名な話です。

その佐賀藩の最新軍事技術は、長崎貿易により外貨を稼いだ賜物であったそうですが
貿易で莫大な益をあげていた佐賀藩や久富氏の活躍を、果たして長崎奉行所が
指をくわえて見ていたのかは疑問です。

kameyama 8

ここで、初期に長崎奉行の奨励により、長崎の伊良林で贅沢な原料を揃え亀山焼を焼いた、という
記述がすんなりと理解できるように思います。

佐賀や平戸がやきもので莫大な利益をあげるのを見て、長崎奉行もその利益のピンはねより
高級磁器を造って輸出しよう、と思ったのは理屈としては当然のことです。

磁器を焼くための職人を、有田や長与、平戸、波佐見などから呼び込み、天草陶石をつかい
そして、極めつけは中国の花呉須を用いて、輸出用食器をオランダやイギリス、そして中国に輸出したわけです。

kameyama 6

ここまで読んで、「あれ?でもそれってアンタの推量でしょう?」というツッコミが・・・
(空耳かな?)

いえいえ、そうじゃありません。

実は、19世紀にイギリス人によって書かれた日本陶磁器についての本には
亀山焼きのことがすでに述べられています。

James Lord Bowesは、外国人として初めて、明治天皇に領事としての地位を賜った
リバプール出身の親日家のイギリス人ですが、彼は日本の美術工芸品の収集に
情熱を傾けた人でもありました。

その彼が19世紀後半に書いた日本磁器についての著書に、優れた肥前陶磁器として
三川内、有田以外に、大川内山(鍋島藩窯)と長崎の亀山焼きを挙げています。
つまり、19世紀のイギリスでは、輸出亀山焼きはすでに知られた存在だったわけです。
ボウズ氏によると、亀山焼は「中国磁器の影響を強く受けている」のだそうです。

kameyama 7

亀山焼きのおもしろさは、この唐子の皿にせよ文人画にせよ、
中国人が見たときに、「?あれ?これ中国のかな?いや、ちがうかな?」と、
一瞬思わせる中国風なのに日本的なハイブリッドさだと思います。

この皿を見たとき、我が家のお宝ハンターも、

「あれ?この皿変だなぁ。中国の染付によく似てるけど、なんか違う・・」

と、妙な面持ちでありました。
しつこく銘を調べろとせっつくので
調べてみたら、亀山だったというわけです。

その後亀山ハンターになった彼ですが、亀山を探す時は
以上のような「妙なフィーリング」に頼ると、結構見つかる、ということでした。

亀山焼きが中国の影響を強く受けている理由はおそらく以下の二つではないでしょうか。
まず、長崎の文化そのものが中国の文化を受けていて、それが
焼物の絵付けに反映されたこと。

もう一つは、唐人の多かった長崎では、19世紀における清国内で
内乱やイギリスとのアヘン戦争などで国が荒廃している様子が随時
知らされていたためではないかと思います。

そう考えると、輸出亀山が中国の磁器を模して造られた、というのは道理にかないます。
穴が開いている磁器の国際市場に割り込もう、という考えですね。

kameyama 9

輸出亀山についてのおもしろい記述を、Soame Jenynsの Japanese Porcelain からも一つ。
Soame Jenynsによると、

「19世紀のオランダへの輸出染付の多くは、亀山、波佐見、塩田(志田)から」なのだそうです。

もちろん、有田の蔵春亭を除いては、でしょうけど。

kameyama 10

さて、19世紀に亀山焼きがヨーロッパに輸出されていた、というのは
イギリス人の記述からもわかるのですが、この辺りで
亀山焼きと有田とのからみについて、もう少し考察してみます。

この皿の銘、松茂堂竹芭製は、実は先に述べたJames Lord Bowesの著書に
二度出てきます。

Japanese Marks and Seals (1882年初版)では、松茂堂竹芭製は有田のものだと
書かれています。そして、1890年に書かれたJapanese Pottery では、なんとこの皿のことが
銘とともに記されています。

Plate of porcelain, on which is painted in deep blue,, a group of seven Chinese boys
engaged in sport and study. Modern.

ボウズ氏は、有田の皿だと思ったようですが、呉須の発色が
印象に残ったのでしょう。記録に、「深い青」という表現をしています。

さて、ボウズ氏がこの皿が有田と思ったのにはわけがあります。
実は、松茂堂竹芭製の銘は、蔵春亭や肥蝶山信甫が輸出した色絵のものと
酷似した輸出物(主に皿やカップ・ソーサーなど)にも見られるんです。

私も実は色絵の皿を一つ持っていますが、銘は松茂堂竹芭製。
でも、幕末の輸出有田に詳しい人なら、一目で、「輸出有田」にも
同じ職人が絵付けしたものがあることに気づくはずです。

海外のディーラーの中には、時々「松茂堂竹芭製」を肥蝶山信甫や
蔵春亭のものとして販売している場合もあるくらいです。

さらに、実は私はこれとまったく同じ絵付け(染付唐子)のテュリーンを二組持っています。
まったく同じ絵付けですが、呉須が違います。「あ、幕末の有田だ」と一目で思わせるような
くすんだ発色の呉須を使用しており、銘はありません。

思うに、松茂堂竹芭製というのは、有田の絵付け職人で、おそらく亀山や有田の
輸出物を手がけた集団だったのではないか、と思います。
個人なのか集団かはわかりませんが、松茂堂竹芭製と銘打った皿の絵付けの
レベルは、この皿のようによく描けているものから、そうでないものまで多々あり、
個人で絵付けした、とは考えにくいものがあります。

おそらくは、長崎あたりに駐屯して、亀山や有田に
オランダ輸出向けの唐物的なものから、いかにもエキゾチックな
サムライやゲイシャの絵を描いていたのではないかと思います。

この推論は、亀山焼き誕生に有田が深く関わっていたことを考えると
そうおかしなものでもありません。
そもそも、長崎奉行は鍋島藩に有田を輸出させる便宜をはかっていたわけ
ですから、亀山焼きを奨励する時に、鍋島藩に技術の援助を要請したのは
当然のことでしょう。

「亀山焼きは長崎独自のものである」というのは
どうやら神話のようですね。

kameyama 13

最後に、なぜ亀山焼きは輸出物に自分のブランド名を書かずに
松茂堂竹芭製、などという銘をつけたのでしょう?

いかにも中国風の銘をつけたかった、というのも
理由の一つでしょうけど、一番の理由は
その輸出先にありました。

実は亀山焼きはオランダやイギリスのみならず、中国にも
輸出されていました。
そして、亀山、という銘は、中国人からみると
「うすのろやま」みたいな意味があり、不評だったからなのだとか。

相方も、「亀山焼き?うーむ。そんな名前は中国では馬鹿馬鹿しくて売れないね」と
言っていましたので、よっぽど不評だったのでしょう・・・・。

ちなみに、このお皿、もちろんチャイナとしてイギリスで売られていました。
購入先は、なんとリバプール!

ボウズ氏は、私設の伊万里の美術館をリバプールに持っていたそうですが
彼の死後は、その収集された品々はすべて散り散りに売られてしまったのだそうです。

このお皿、もしかしたらボウズ氏が眺めた皿だったのかなぁ?などと
うっとりと妄想したりするのも、結構楽しいですね。


ブログ村に参加しています。

にほんブログ村 美術ブログ 古美術・骨董へ
にほんブログ村

にほんブログ村 美術ブログへ
にほんブログ村


Related Entries

Category: 亀山?

tb 0 : cm 0   

Comments

Post a comment

Secret

Trackbacks

TrackbacksURL
→http://micnoski.blog.fc2.com/tb.php/66-0a44422e
Use trackback on this entry.